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  • 執筆者の写真ISONAGA AKIKO

鳥肌が/穂村弘

更新日:1月11日



最近、メガネを買った。

これまでは太縁のメガネだったのをちょっと気分を変えて細縁のメガネにした。

家に帰ってすっぴんでそのメガネをかけてふと、鏡に映った自分の顔を見てギョッとした。亡くなった祖母にあまりにそっくりだったのだ。



現代短歌の先駆者的存在である歌人、穂村弘のエッセイ『鳥肌が』。

「こわい」の裏にある意味、「可笑しさ」の意味に気がついたとき、ぞくっと鳥肌がたつ。

そんな42の瞬間を集めたエッセイだ。

その42のぞくっとすることの一つに「似ている」がある。

自分ではどうすることもできない、血の、遺伝子の、支配を受けて「私」の存在が怪しくなる。若い頃は似ていなかったのに、あるときから急激に似てくるのが、見えないスイッチが入ったようで恐ろしい。そこにマイナスの要素が少しでもあったらさらに恐怖は増す。自分の中にもしかしたら眠っているかもしれない何かを恐れている 

これだ、と思った。


私は子どもの頃から母親にそっくりだと言われていた。参観日にきた私の母を見つけた同級生に「(お前の親だと)すぐわかる」と笑われたこともある。でも祖母に似ていると言われたことは一度もなかった。私にとって祖母は、見た目も、気性も、私とは明らかに「別のタイプ」の人だった。それなのに、自分自身が「祖母に似ている」ことを見つけてしまった。


祖母は早くに夫を亡くし、女手一つで母を育てた。戦後の混乱期に、社会保障などという言葉も浸透していない中で大変だったろうと思うし、「よくぞ」と思う。その祖母と同居していた私は子どもの頃に、祖母の武勇伝のような話を何度か聞かされた。すごいと思う一方で、その気性の激しさや、娘である私の母への尋常でない執着心は私にとって反面教師でもあった。「私とは全然違うタイプの人」。そう思っていた祖母に似ている部分が私の中にもあったのだ。そのことに心底、ギョッとした。


私のような場合に限らず、親や祖父や祖母に「似ている」と言われて、「うれしい」と思う人はまれだろう。多くの人は、なんとなく嫌悪に近い感情を抱くのではないか。その感覚をどう表現したらいいだろう。ただ「似ているのが嫌だ」というのとはちょっと違う。


穂村さんの言葉を借りれば、「似ている」とは「自分ではどうすることもできない、血の、遺伝子の支配を受けている」と感じざる得ないことだという。


そうか、と思う。似ていると自覚した瞬間、そのことを目の先に突きつけられたように感じて、たじろいてしまったのだ。



『鳥肌が』には、この「似ている」以外にも、「道路に鹿の上半身が落ちていた話」とか「宿泊したホテルで体験した心霊現象」など誰もがゾクッとする話もある。でも私が一番共感したのはこの「似ている」と、もうひとつ「母なるもの」という話だった。


「母なるもの」とは永遠に盲目的な母性愛の怖さの話。究極の母性愛は無償の愛であると同時に愛することで殺すという怖さを秘めているという話だ。


この本の楽しみ方としては、自分がどの「ゾクッとする体験」に共感するかで、自分が何に恐怖を感じるのかを知る、ことなのかなと思う。もしかしたら自分のパンドラの箱をひらいてしまうかもしれないと、ドキドキしながらページをめくる感覚。


私の場合、思うに「愛」とか「絆」というきれいな単語で隠されてしまいがちなものに、ゾクッと感じてしまうらしい。逃れたくても逃れられないもの。それが私にとって、一番恐ろしいものなのだ。

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